昭和48年12月02日 特別奉修委員



 信心のまぁ欠点と言うなら、何とはなしに和らぐ心は、問題は人一倍いただいとるように思う。又は喜びの心も誰にも負けん位に、喜びの心を頂いておると思う。何かそういうなかに一本。しゃんとした通っておる、根性と言った様なものが、私の信心には欠けておるように思うんです。ですから皆さんの場合でも、やっぱりそれが言えるのじゃないかと思うですね。やっぱりあの結局は、まぁ中心に集まって見える方達。類は類を持って集まると言うくらいですから。
 最近はあの、御祈念にかかる前に、富永さんがお届けしておられるように、昨夜お月次祭を拝まして貰うて、御霊様のほうを拝みよったら、悲しゅうなってきたという訳なんですね。今朝はまた、あの真っ白い霜の降っておる中を、母がここを本当に毎日もう、喜びいっぱいで通うて来とったと思うたら、もう何か知らんけれども、こう元気が湧いてくるとこう言うのですね。ですから如何に、あの夜と昼と言う事だけでも、そんなに違うもんかと言う事が分かりますね。
 私はあの、うちの修行生の方達にも言うんですけれども、あの朝のひと時は、やはり夜ならば、三時間がたあるだろうちね。いうなら値打ちはね。何とはなしにそのいわゆる、和らいだ心と言うのは有難いですけれども、その例えば何とはなしに、まぁお月様を眺めて、無常を感じるようなのが、やっぱ夜の性格ですよね。ですからどうしても、やっぱりあの朝のしじまを破ってと言う様な、朝参りがそこが値打ちなんですけれども。とにかく生き生きとした心が生れる。
 どっちかというとそういう心が、合楽の場合はあの少しバランスが崩れておるような感じがするんですよ。これは私自身のまぁ欠点というなら、だからそこを何時も性根のなかに置いとかんと、もうがらがらっとこう。私があの月次祭の後には、まぁ言うなら、私の取り巻きの人達が、みんな集まってお茶を頂いて、そして一時までも二時までも、その信心話じゃあるけれども茶飲み話。それを私が大変楽しんだと言う時代があったんですよね。もうこちらからすきっと、それを止めさせてもらう。
 そすと銘々も早く帰れて、それだけ早く休まれるしね。あぁまた今日も残らなんばい、しかも出来るだけ、隙を見てから立ち上がるち言うごたる風な、はっははあれがですね、それが、今まであったのが、この頃それがなくなって、あやっぱ自分の欠点を知ってるからね、段々おかげを頂いてきよる。それでもそれでも、まぁだまぁだ何ていうですか、筋金って言うか根性と言った様なものが欠けておる様に思うのですけれども。
 和らいだ心、同時にそれに毅然としたものと言うものがね。私どもが何時も心がけとかなければ、バランスが崩れる。崩れると富永さんの、昨夜じゃないけれども何とはなしに、悲しゅうなってくる。いやしかしまぁね。一年ぐらいは悲しゅうなるよ。悲しゅうなかったら、お母さんがひょっとすると、腹かきなさるかも知れん。この人はいつもニコニコしてと思うて。んだからそう言うけれどもね。
 そのなかにねやはり筋金の通った、しゃんとしたものがね。悲しいけれどもその次には、あのなんかもりもりしたものが、こう湧いてくると言った様なおかげを頂く所のね。やはりあの工夫が必要じゃないでしょうかね。いま私御神前に出らせて頂いたら、もうバナナこうむいてね、なかに黒い芯があるでしょう。あそこを頂くんですよ。ははぁこら、私のちょうど戻った、そのころじゃろうと思うてね。
 柔らかいけれども中に、芯がしゃんとおあると言う事です。やっぱバナナでも芯があると言う事ですね。私共はなんかその、和らいでるところだけはなんか。だからもうそんな何とはなしにその、まぁ良う言うとその、だらしがない。いや悪く言うとね、そういう結果になってくる向きが、合楽にはあるんです。ですから、毅然としたものが欠けておる事をお互いが一つ、その確認して認識しとかなきゃいけませんね。
 そしてやっぱりブレーキを掛けるところは、ブレーキを掛けてそらもう、なんか月次祭の時でも、まぁあすけ五六人座って、もう裏へ来てお茶でも飲んで貰や、もう楽しいですやっぱり。けれどもこれはこの頃すっきり、もうここ一年ぐらいですね、止めましたが。私もそしてほんならそがしこ疲れないし、みんなもそれだけ早く帰れていい筈ですもんね。自分の欠点を分からせてもらうと言う事は有難い。どうでも大事ですね。
   どうぞ。